今日の十音は、↑こちらの事業運営の手伝いでした。
アウトリーチって?
そうですね、例えば「雑司ヶ谷手waza市」は十音のような手技療法者たちの「アウトリーチ」活動だと思います。雑司が谷という街と、リフレクソロジーというアートがどうかかわっていけるかという、小さな実験です。
(わかりにくいか…)
音楽プロデューサーの児玉真さんのトークに、文化生態観察をしている大澤寅雄さんが相槌をうち、切り込みながら、
(クラシック音楽で実践する)アウトリーチとは、
自立型とは、
その場に必要な人材とは
について洗い出しを試みる企画でした。
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さて、タイトルにもある「自立」といったときに、
十音のクライアントの皆さんは、どんなことを連想するかしらん。
結構厳しい言葉が並びそう。「頼ってはいけない」とか。「経済的に」とか。
頑張って、足まで影響が出ているぐらいですから…
今日は大澤さんが、2012年に小児科医の熊谷晋一郎さんが人権情報誌によるインタビューで語った言葉を紹介された瞬間、
何か場のつきものが落ちたようなほうっとした空気が流れました。
そのフレーズと自分のもろさがリンクしたかのような。
一か所に大きく依存するのではなくて、
たくさんの相手に少しずつ依存することで、
痛手は少なく、修正しながら、自立していける、という強い考え方。
そこにはたくさんの、めんどくさくもある「かかわり合い」が生じ、
実は多様を消化する力が必要になるでしょう。
そういえば、
依存というと、十音は「土」の要素を思うのですが、
土の要素が乱れてうまい具合の依存ができなくなったり、
逆にある対象にどっぷり寄りかかったとき、
その土壌は木が自ら立てない貧しいものになってしまうのかもしれません。
土の経絡が胃経、脾経であるというのも多様の消化力にかかわるようですし。
という具合にセラピューティック・リフレクソロジストの連想は止まらない。
結果、ある言葉や、刺激から、膨大な「物語」が生まれてくることになります。
そのストーリー紡ぎを足への刺激でオーダーメイドにやって二人で眺めるのが、わたしの仕事だと思っていましたが、
児玉さんは、それを「アウトリーチ」という現場で実践されていたり、
ファシリテーターはそれをあるワークショップの中で引き出したり。
物語を紡ぐのは、人とかかわるどの仕事にも流れるエッセンスなんですね。
そして、本日紹介された本1冊。
小川洋子、河合隼雄両氏の対談「生きるとは、自分の物語をつくること」
あと、もう一度読もうっと、と思った1冊。
西村佳哲氏の「かかわり方のまなび方ーワークショップとファシリテーションの現場から」
上記の熊谷氏のインタビューの言葉には、
「希望は、絶望を分かち合うこと」というフレーズが続いてタイトルとなっています。
たくさんの物語を読み、社会を読み、回り道をして、
色々な世界を想像も創造もできるようになりたいものです。