ある記事である地域に向けられた
「こんなボロ家はタダに決まっている!もらえるな!」
というまなざしに対して、さっきから心がざわざわして仕方がない。
十音が想う、ホームとかハウスの話につながっているからでしょう。
空き家にむけるまなざしの、敬意の温度の低さが気になっている。
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例えば、その斜面に誰かの大好きだった亡きじいちゃんの、訳あって手を付けられないでいる「ボロ家」があったら。
その誰かがあの記事を読むかも。「こんなメジャーなサイトに、我が町のことが、載りました!」と。
「雑司ヶ谷のボロ屋、あんなの絶対タダ!もらえる!」って書かれたら、
怒りますね、自分ちじゃなくても。
どんなに古く崩れそうで、今は人がいなくても、そこにあるからには他人の知らないあゆみがあるのではないか。
誰かがやっと手に入れたマイホームや別荘だったかもしれないし、
その斜面から美しい海を見て心を鎮めていた家族がいたかもしれない。
どの町でもある崩れそうな空き家には染み付いている気のようなものがある。
空き家というのはたいがい、複雑な感情を抱えたものだ。
それに押しつぶされては何も始まらないのかもしれないが、それを感じ取ることができない人にしてもらう街興しをわたしはいらない。
メジャーなストーリー建てに心をときめかせるのはいいけれど、
言葉は地域にむけたまなざし。
責任があると思うのです。
行動力すばらしい、
キラキラさんのセリフに現れているひとひらの想像力の欠如は、
増幅して「復興」におけるホームとハウスの問題にもたびたび影を落としている。
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一人のわかものの、自己実現の軌跡として読めばよいのですけれど。