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中庸。


「中庸」は面白くないとずっと思っていた。

安定、均衡、moderate、といった言葉が、

ほどほどに、

やりすぎず、

こころを大きく動かさない、

という在り方を言っているのだと思っていたからだ。

傾いたほうが、高い方から低い方へのエネルギーが生じるではないか。

深く落ちるとジャンプも高いでしょう。

中庸なんていまの自分の辞書にない、と。

それで、振り子が中心に戻るように、

ある歳になればそのプラスとマイナスのエネルギーを消化した状態で、

「不動」の中庸を手に入れるのだと思っていた。

だからものごとは極端にやるようにしてきた。

結果、心身のバランスがとれていることなどなく、

不安定なのが個性だとさえ思っていた。

しかし、人生の正午がきた。

もうそろそろ解れよと何かがわたしを殴って

極端な自分を洗い出す自分内裁判のような機会が与えられ、

東洋医学的な世界を学びはじめることになった。

姉も、妹もいる歳に立ってみて、

人生の上からも下からものエネルギーを受け取ってみる。

足裏の筋肉はとても繊細な感覚でバランスをとりながら私を立たせてくれていて、

気が付きました。

あら、中庸って、えらくエネルギーがいる。

振り子の動きの終わりではなくて、

シーソーの支点のようなもの。

極端な上下左右のうごきを自身の中心で支える、

その点があるから、振れ幅が許され、

その点で責任をとるから、振れ幅が魅力にも変換できるもの。

土のエネルギーは「安定」と言われるが、

それは、四季のない年中過ごしやすい気候でのんべんだらりとしているということではなくて、

冬の反対側に夏があり、

あそこに火事があり、こっちでは洪水があるという事実を

全部飲み込んで承諾できる「安定」だ。

ルネサンスダンスの師匠で先日五行に還ってしまった小澤高志さん(おぢぢ)が、

年賀状で20代のわたしに言ってくれていた。

「わはは、おおいに歌舞く(かぶく)がよい!」

とけしかけられ傾いたところで起こした災難に際して、

おぢぢが救ってくれるわけではないので、

まあ面白がってたんだろうな、あとは手に負えなかったんだろうな、などと思っていたが。

その時すでに人生の午後にいた人たちは、

わたしが正午に立った時に、

「強い中庸」を手に入れることができるよう、

よくもわるくも、強い振れとブレと触れを促してくれていたのか。

気が触れる、と言う。

その極端をその人の強さと美しさにできるはず。

そう思っていたほうが、人と向かい合うのは楽しい。

中庸の美学は深い。

多種多様なエネルギーを含んでとても危ういが、

依存先が多ければ多いほど、簡単には崩れない運動体だ。

支点であり、俯瞰のまなざしであり、強い土であるということ。

自分の振れ幅を、他人でバランスとるのではなく、

自分で支えるということだ。

(いいなあ、中年。わくわくします。)


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