「庭はどこか遠くを引き寄せる技術だと考えています。世界は自分以外のもので溢れている。それは旅の中で最も実感できますが、ちょっとした庭があれば、しばしの間、眺めたり佇んだりすることで自身を脱却でき、遥かなものに思いを馳せることができます。」 (神保町「温室」http://onshitsu.com/index.php のペーパーより<庭>)
植物を育てる、部屋を整える、文章を書く、食卓を整える、人体を調音する、
リフレクソロジストになってから、
無数の庭を作って眺めている感じがします。
横浜に住む96歳の祖母の庭は、
今日は甘夏の花の匂いがたちこめていました。
菖蒲が咲き、
梅の実がなり始めていました。
庭で採れた作物をとても誇りにしていて、
丁寧に送ってくれるので、
クライアントにもよく月桂樹をお配りしています。
もう一人の祖母は30年前に他界しましたが、
彼女はとても広い庭を持っていました。
でも、宮沢賢治のように手を後ろに組んで彼女が見て回っていたのは、
庭の木ではなく、
小さな鉢に植わって日陰に置かれていた山野草のコレクションだったようです。
その鉢が引き取られていく景色をなんとなく覚えています。
わたしを幼い者としか認めていなかったらしく、
何も言葉では教えてくれませんでしたが、
つつじの赤と黄緑の毒々しいほどのコントラストとか、
あまり形の良くない泰山木がシンボルツリーだったこととか、
木蓮の花弁が地面で茶色く土に戻っていくさまなど、
何だか激しいもののある庭で遊ばせてもらいいろいろ感じ取りました。
あの庭で何を表現したかったのだろうと思います。
実はあまり植物と仲良くなかったのではとか、
表現できなかったものが多かったのかもと思ったり。
今彼女と40歳のわたしが向かい合う光景は、
怖すぎて想像できませんが、
きっとお互いを苦手というか、嫌いだっただろう、と思います。
庭は守られた結界のようなもので、
わたしの心にも庭がある。
この季節はそれが狂ったように若葉を出すので、
ちょっと暦に喧嘩を売りたくなったりします。
母の日は苦手です。
わざわざ日の名にしなくても
女にとってはまいにちが、母「たち」の日のようなもので、
なかなか扱いあぐねるではないか?