確かにどこまでも客観的に書いて、削いでも削いでも味のある文章には本当に敬意を抱きます。
いつもオチのないだらだらとしたブログです。
一つのテーマをあまり長く引き伸ばして考えられないので、
短いつぶやきを糠床日記とか手酌日記とか称して書いています。
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30代のうちは、コンサートや音楽家の活動のレポートを書けば
「これは、あなたの日記でしかないと思う」とか、
「自分色を排しても排しても、にじみ出るのが味だから」とか、
たしなめられてばかりいました。
公式なレポートってやつが書けなかったわけです。
今思えば、主観があるのが悪いと言われたわけではなく、
主観と客観は混ぜ具合が肝だぞと教えてくださっていた、のかな?
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アートプロジェクトとか、
人材(財)育成とか、
語る言葉をもつとか、
プロジェクトを説明する能力とかいう言葉をちかごろ山ほど見ます。
言葉を探すのみならず、
何か前例に基づいた分析ができなければいけないようで、
その技術を習得する講座がお金になる時代。
専門書を読み、語ることができる人のみが文化を担う「財」なのだろうか。
アートプロジェクトを企画するでもなく、実施するでもなく、
かといって被験者として参加するわけでもない者となると、
一気に「趣味で鑑賞」の域の住人とみなされる。
平易で本質をついた言葉を見つけるのは難しい。
同じような文献を読み同じような流行りの場を体験した人が集まるそこは知の楽園でしょう。
そこから繰り出した純正培養な言葉は、
外の人人に伝道する強さがあるだろうか。
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映画「マリー・クロヤー」を観る。
愛と芸術に生きて、という副題だけれど、
芸術のために譲れないものがあったという描かれ方ではなく、
夫と愛人がたまたま芸術家だったぐらいにしか「芸術」は出てこない。
スケーエンの海辺の風景は美しい。
彼らが海辺に魅せられなければ、違っていたと思う。
風が強いところにずっといると、気の細い人はやはり病む。
ビッグイシューの記事で、女優のアリシア・ヴィキャンデルが、
同じく海辺で生活する女を演じた後に、
灯台守が病むのが分かる気がしたと言っていた。
上野の国立美術館で見たスケーエンの目の醒めるような水の光はすごく痛かった。
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消費を促進する風潮から純正培養されたのであろう「自分爆発」レディという言葉には、やっぱり違和感ある。
勢いを表したいのはわかったけれど、自爆のイメージ、他人に迷惑がかかるイメージがある。
脂肪燃焼ぐらいのフツフツ度で良いのではないだろうか。
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今晩はパクチーオイルを漬けるのである。
夕方のクライアントが香菜嫌いだったら悲劇なので、晩までガマン。