セッションルーム(一般にはサロン、と呼ぶと思う)を開室するのは
スタートでしかない。
資格をとることもそう。
あたりまえのことなのだが、近頃になってヒシヒシと実感し、
気弱な自分に狼狽してみたり。
1年間、スタートの高揚感でやってきて、1周年を祝ったが、
さて、「2年目」というのはなかなか手ごわい。
自分の中でも位置づけしにくい辛抱どきなのだろう(、と妙に客観的なのではありますが)。
さあ、雑司ヶ谷の小さなセッションルームはどこへ向かうのか。
世の中、疲れている人はいなくならない。
増えていきますね、確実に。
その人たちの疲れをとるためにひたすら施術をできるとしたらゴールはない。
施術をするたびに研ぎ澄まされていく感覚や、
会得していくこと、知識を仕入れ続けることにもゴールがない。
東洋医学についてはもっときちんと学ぶ。
でも、そうしてリフレクソロジストとして刺激が熟達するのと同時に、
場も醸造して美味しくしなければなあということ。
コンサートを1つ企画制作運営することは、
どんなに小さなものでも、
文化シーンや社交場を創ることだったと思う。
集うということを人間が楽しみ、
音楽家の生み出すものを共有するその前後の時間も含めて、
他人が企画したものでも体験し逃せないコンサートというのがあった。
絶対外せない出会いみたいなものだ。
リフレクソロジーを含む手技療法者も、
音楽家やスタッフと同じく、ある文化シーンを創ることができると思う。
セッションをアートプロジェクトとすることもできると思う。
施術部屋が一般に「サロン」と言われるのは、
そこに社交場たる交流や、美や文化度(や元気)のアップにつながる空気があるからでしょう。
リフレクソロジストが
いつまでも人間の仕事であり続けるためには、
人間と向かい合い相互に影響し合う場を、マンネリ化させてはいけないのだよな。
ちかごろそんなことを考えていて、
では、どうしたら毎回新鮮にできるかと考えている。
例えば、庭。
例えば、お点前。
例えば、ライブ。
行きつけの飲み屋。
梅ジュースができていく瓶の中。
来れば必ず、変化のある場。
施されるものはオーダーメイドのもてなしであること。
小さなその場から、わたしたちの小さな作品が、文化が、生まれるようなところ。