現場の共通意識をつくるのに、「ことば」で定義する。 分野の既存の、当たりまえのように使っていた「ことば」に新しいものを突っ込んでみたり、違う分野からことばをひっぱってきたり。
ということにとても興味があったのですけれど、 それが講座とか、プロジェクトになって「ほら!」と提示されると、 途端にその「ことば」に興味を失い、参加したいとは思わなくなってしまった自分に自己嫌悪があります。
単なる天邪鬼なのでしょうか。 多分、「ことば」を、食卓または酒場で語るのが好きなだけなのだ。 全くアカデミックでないが、生きることに根差していることば。
垢にまみれていたり、発酵していたりもするが、それは疲れた心身に効くのだ。
アルコールの勢いと思考の掛け算で体中の細胞が活性化する瞬間。
「ことば」をプロジェクト化することによって、愛ある現場が増えると良いのですけれど… アートを語る現場に愛がない、敬意も少ないというのは悲劇だと思う。
クラシック音楽は難しい、だからその壁を一緒に乗り越えよう、と呼びかけるのがエデュケーション担当(と自分の時代には言ったのです)だと思っていた。
乗り越えるために、ボルダリングで何通りものルートを発見する作業を、色々な人と一緒にやるのが音楽ワークショップだとも思っている。
そのホールド(ボルダリングだとあのカラフルな突起)は、 人の手の大きさや力の強さにあわせて色々あったほうが良い。 もし、シンプルにほんの少ししかホールドがない壁なら、 上る側の身体と心の使い方を、鍛えたり合わせていったりする。
難解で解らないよ、と言われるもののエデュケーション担当の仕事は、 カベの高さを下げることだけではない。
「ことば」がわたしのところに来ない、 提示されても吸収されなくなってしまって辛い。 (ここまで書いて思ったのですが、「壊れかけのレディオ」かい!)
このプロジェクトに文句を言っているのではない、 リンクは、こういうことを考えることになったきっかけ。 最近よく見るな、と思っていました。 かたちにしてしまうのだから、すごいなあと思っています。
アートプロジェクトを動かすためのことば、は、 人の心に作用することばであるはず。 助成金獲得のための総務省用語が、まったく心に効かないのです。
ことばってそれでいいんでしょうか。
ホールドを見失ったわたしをだれかエデュケーションしてくれないか。
雨に働いてもらってます。↑きれいさっぱり。