「型」には主体性がない、が
「型」は人を安心させ、
その枠内から自分の創造したいものを繰り出す泉のようなものだったりもする。
わたしはセッションにはある程度「型」を必要とするタイプで、
「型」が自分を自由に、感じ取る力を強くしてくれると思っています。
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今日は、池袋目白間にある「自由学園」で、
に、番頭と聴講で連なってきました。
参加者の皆さんからの質問がすばらしく触発のあるもので、、、
特に覚えている最後の質問
「分かりにくいことを、なんとか分かりやすく伝える」ことについて。
(十音の意訳で恐縮なのですが)
伝えたいことを言葉で伝えようとするとき、
9割の人が理解できるように、オンラインに投げ込むこともある。
たくさんの「いいね!」が欲しいでしょう?
そして、20人に伝わればいい、という考え方もありだとは思います。
しかし!それが、(日本の伝統芸能のように、と仰っていましたが)、
伝えることの努力を怠ってしまっては、そもそもの伝える力さえも、弱ってしまうことになるのでは?とか、いつもいつも考えている。
という林千晶さんと、
情報として教えられるばかりの人の脳ってあんまり働いてないと思っていて、
それを働かせる「仕掛け」としてデザインやアートがあるのではないだろうか。
という小倉ヒラクさんと、
「溜める」ことは大事ですね、世阿弥も「老いの華」って言いましたし、
「旬」は「未来」にある
と捩子ぴじんさんと。
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私自身は、この鼎談で、
昔書いた「持ちこたえる」ことについてのエントリーを思い出しました。
タイミングもあるのか、
最近とにかく
受け容れましょう、理解しましょう、多様性を、認めましょう
と自分にも課していたと思います。
が、これをあまり取ってつけたように字面で追いかけていると、
無理やり落ちたものを(消化する酵素や腸内菌が増えるからと)口に押し込まれているような、不快感。
を感じているではないか、私は。
不可解さに持ちこたえること、
理解できない状態を、
先を急がず「熟成」できることの、
うまみは必ずあると、分かっていたつもりなのに。
待つって、いいことです。
眠らせていた糠床、そろそろ復活させようかな。
この投稿も、寝かせず勢いで書いたもので、「」ばかりで、
他人には伝わらず、なのですが、
こういう言葉たちを、
リフレクソロジーのセッションをしながら、
クライアントと語り合ったり、
刺激と一緒に熟考してみたりすることもあります。