研究で明らかになったことよりも、
なぜその研究が行われるようになったかの方に興味がわくことが多く、
養老孟司「解剖学教室へようこそ」を読んでいます。
東洋医学がなぜこんなに哲学的なのか、
具体的でないのか、
それゆえに腑に落ちることも多いのか、の理由として、
人体解剖が禁じられていたから と教わったことがあるのですが、
果たしてどういう歴史だったのか。
日本だとターヘル・アナトミアの杉田玄白の前に、
山脇東洋が刑場の死体を解剖していたという江戸時代からの歴史があること。
ご献体よりも死体が今よりもお隣にいた時代から生まれた、
身体をことばで切る作業=解剖 のことが、
「ヒトの消化管。複雑に見えるが、まとめて見れば、1本の管である。」
みたいな短い文章で、ぐいぐいと展開されます。
*
「コンサートで演奏するとき、トークを入れてほしいとアンケートに書かれます。トークをいれるとどうなんだと訊ねると、そのほうが身近になるからと答えられます。
身近になったから、どうだって言うんです?」
と、ある音楽家がコンサートのトークで仰ったことがあって、
客席が笑いに包まれたことがありました。
人にはわかりたい、知りたいという欲求があるらしい。
「人間はものを知ろうとする。それには限りがない。たとえ限りがなくても、どこまでも知ろうとするのである。
解剖がなぜ生じたか。その最後の理由は、これである。人間は、なにごとであれ、知ろうとし、知りたいと思うからである。人間は、自分自身のからだを、知ろうと思ったのである。学問とは、すべてこの『知りたい』から起こるのである」(養老猛司:解剖学教室へようこそ p78-79)
人体をその名でよりも機能で捉える東洋医学が好きです。
知らなくても、腑に落ちればいいと思ったりもします。
この手に触れている皮膚の向こうの筋肉のことを、
その人なりの切り方、並びで納得できればそれでいいという考え方だって、
生きていくのには十分かもしれません。
人に手指で刺激を入れ、五行で縫い繋げるのがセラピューティック・リフレクソロジーだとも思う。
系統解剖で明らかになったことよりも、
なぜ人は系統解剖をするのだろう、ということに興味がわいてきました。