以前セッションに来てくださった友人とのメールのやりとりから。
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最近、「こうでなければならない」 というまるで教祖のように人を縛る「型」についてよく考えます。
当然のようにそこにいなければならないと、 身体もこころもその形になってしまっているけれど、
自分の知らない自由が、 自分の外にも、内にもあるのではないか。
自分をはめているその「型」を疑うのは 勇気がいる。 ひとりでやるにはとても怖いこともあります。
自分がバラバラになってしまうような、 すがっていたものが消えてしまうのではないかということ。
身体を解す(ほぐす)というのは、 身体のひきこもり状態にノックをするようなものなのかも。
他人からは具体的な「解決策」=治療やアドヴァイスは「もらえない」ことを悲しいけれど認めたうえで、 自分の心身にノックを入れ続けるというのは大事だと思うんですね。
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このブログの機能である、
カテゴリー(部門)分けというのがどうしてもできず、
ここ1年分が巨大な散文と化しています。
つくづく
部門と部門の間に落ちてしまったもの、
人によってはそれについて考えてもなんの達成にもならないもの、
カテゴリーやジャンルといった名のつけられない狭間のものに目が行ってしまった。
むにゃむにゃと言葉にしようとします。
それが、完璧なレポートの類が書けない理由かもしれません。
講義でもなんでも、
いつも核心でない部分にこころが泳いでいて、
肝心な単語はいつも聞いていませんでした。
ただ、何か報告されたり学術的なその決定的な単語が、
わたしには全く腑に落ちていない。
義務で反応しようとすると、単語ばかり聞いて文脈を聞き逃します。
さて、完全に文章の流れと単語を理解するということは、
わたしの仕事にどれくらい必要なことなんだろう。
理解できることってそんなにいいことなのか。
理論的なのは地に足がついていて、
感覚的なのはうわついていのだ、
とわたしは自分を責めていますが、
ふわついたフレーズの何がそんなにいけないのだろうか。
ほぐすは解すと書きますが、
人に刺激を入れるわたしの仕事は、
人の自己治癒力に再起動をかけて、
筋肉をほぐしもするはずだが、
ほぐすわたしは本当に解れているのだろうか。
そんなところから紡ごうと思っている企画が一つありまして、
近日お知らせできると思います。
(次の日に後記:以上、いかにも春っぽいご乱心な文だなあとあきれたのですが、
もう少し残しておくことにします)