そういえばゴールデンウィークの始め、梅若能楽学院会館での、仕舞や舞囃子、素謡の発表会へ伺ったのでした。
しぐさの一つ一つが、
型として美しく伝えられていて、
「なければならない、しかしそれ以上はいらない」
という絶妙なぎりぎりラインに目もこころも釘付けでした。
能は究極の癒しだったと、聞きましたが、
あの世とこの世の境目でうつらうつらとしている間に、
細胞に刺激が入って新陳代謝するということなんでしょう。
能舞台の上のみが隙なく張りつめている、
気配りで満ちているものを、
こちらが完全にリラックスして
守られた空間で見ているというギャップが、
そういう究極の癒しをもたらすのかなと感じました。
それ、リフレクソロジーのセッションでも一緒。
いつのまにか序破を過ぎて急になっていることとか、
袴の脇あきのところに手を入れとくとか(シスターみたい)
方向転換は内回りであること(すごく内反足になります。腎経…)
地をドンっと打ったあと、ふっと上るつまさき、
地謡のみなさんの、扇子を持ったときに先っちょが少しだけ地に着いているのは、
アース線みたいだな、とか。
足の運びがなんと地に執着のある世界だろうとか。
詳しくないので、
一つ一つの理由を知りたいと思うと同時に、
自分で読み取ろうとしてみる。
相手の心づくしを、
説明されずに読み取ろうとする、という想像力の使いあいが、
生きるということを豊かにするなと思います。
そして、型を、
覚えなくてはいけないこととしてではなく、
必然のこととして流れの中でとれるという身体の興味深さと、
無駄がなくて、とてもトレーニングされていて、
どこまでも自分を消すけれども、
どうしようもなく出ているその人の性質に興味がわく。
舞っているひとはもちろんなのですが、
例えば型から外れざるを得ない後見の、
すそを整える指先に出る、個性とか、気性のようなもの。
ふとしたところでにじみ出るものだから、
普段から自分を整えないといけないんだということも知る。
何百年続く研ぎ澄まされたパフォーマンス=セラピーから教わることは多い。