top of page

十音イタリア・ルネサンス巡礼!②


*単純であれ。

働くということは本来、とても単純なこと。

起きて、はたらいて、食べて、語って、寝る。

自分や家族を養うために働き、

もっと大きな存在(イタリアならカトリックの神様だろうか)に誓ってしごとをする。

それだけ。

ナポリのヴェスヴィアナ周遊鉄道の若くて小柄な運転手、兼、車掌さん

(大概2人組で、一人が駅に着くたびに車両ドアを閉めに行く)は、

発車直前もスマフォ、

運転中も2分ごとにスマフォ凝視、

この列車はポンペイに行くか?という観光客の焦った質問にも、

返事はしない(否定しなければ肯定だ)。

でも、始発の車両をドアを閉めた時、

1両目の入り口で十字を切りながら運転席に向かう。

それを見たせいか、ポンペイからソレントにいく間、

この鉄道がバラバラになりそうなぐらい飛ばして坂を爆走したときも、

安心していた。

彼らは誓ってしごとしてくれているだろうから。

大概の、肉体労働をしている男がサングラスをしており、

私にはサングラスの文化がないので、

全員マフィアに見える。ごめん。

中身はいたって真面目。

愛想がないだけ。

愛想を振りまくのは彼らのしごとではない。

さっき行先を質問してきた観光客に、

次の駅です、と一言声をかけることは忘れない。

黒い、黒い、ナポリです。

統治者が次々変わりすぎて、 民衆は混乱しきり、 そのまま今になってしまった感じ。 今も、イタリアの一部だとは思ってないんでは。

虎視眈眈としながら右から左へ物流することで儲けるわけでもなく。 学問で身を立てるということでもなく。

いつも「また規則が変わりやがった、わけわかんね〜!!」と

クラクションを鳴らしている間に、 ルネサンスも起きなかった、という感じ。

規則に従わないということがこの人たちの連帯の手段だったのかも。

教会で観光客相手に入館料とったらかなりの雇用を賄うかもしれないけれど、 それはやらないのです。

まるで狭い路地をスクーターで二人乗りすることが 一人前のしるしであるかのように ゲームのように観光客を ぬって、 子どもまでスクーター二人乗りで爆走していましたが、 弱小な十音が喧騒と排気ガスに窒息しそうになっても、 横にある埃まみれの教会に入れば、 静けさと、安全だけは保証してくれる。

↑ナポリ。しかし、教会の階段の下さえ商売の場になっている。この混沌。

そして、 目を合わせていれば必ず、 いいサインをくれる。

ピッツェリアでいくら合図しても注文をなかなか取りに来てくれないが、 見ていたスマフォを置いたら「はいはい、今いくっから」と

ウィンクしながら来てくれたり、

↑うまい。

カンブリヌスで「君らのエスプレッソを今、オレが淹れてますから!」と

目配せをくれたり。

↑とろーり。エスプレッソ。

宿泊しているアパートの入り口で

「やってられっかよ」という感じでたばこを吸うお姉さんに、

こんばんはと勇気を持って言えば、 吸いながらでも必ずしっかりと返してくれたり、

3日目でやっとスーパーの加工肉売り場のおっちゃんが、 うなずいてくれたり。

↑おじちゃんとのアイコンタクトの末に手にいれたモッツァレラチーズ!

まるでこのにっぽんじんに、 挨拶を返さなかったら、

オレのしごとから罰せられるかも ぐらいに律儀なのだった。

それはその人にコンタクトを取ろうと必死になっている自分ひとりだけにもらえる小さな幸せで、

「目配せ」とは最高に一対一の、素敵なコミュニケーションだなと思う。

目配せのできないマスへのサービスに、

ナポリの人たちはあまり興味がないように見えた。

ナポリはとっても、個人対個人。

やる気も感じないが、 軽蔑も感じない。

今日の規則は、明日は違うかもしれないし。

あなたはあなたの基準で、満足して生きる権利があるので。

単純であれ。

単純が色っぽい。


bottom of page