「いり江」「山ちゃん」「山口精米店」「古田島豆腐店」
… 学生時代から雑司ヶ谷に住んで、 そこにあることが当然だと思っていたお店が、 次々とお仕舞にされる春夏秋です。
と、これを下書きしていた今夜、
お客様から教えてもらって知った、
「あぶくり」の7月末での閉店。
雑司ヶ谷の風景がまた変わっていきます。
目白通りに何が起こっているのでしょうか。
風景が一つ消えるということは、
何か大事な歯車が一つ消えたような気分ですね。
膨大な情報が失われたと感じます。
SNSの普及で、
「お店」の可能性はあがりました。
十音のように、
路面に出ていなくてもこうして存在を発信し、
認識していただくことができます。
しかし、店構えのない十音が、
雑司ヶ谷の「風景」になることは難しい。
だから
「あぶくり」や「yurucafe」や「展示室」や「エクレクティク」や「ギャラリーゆめじ」
雑司ヶ谷ではないけれどIMSIや日暮里の「ビアパブイシイ」(!)で
置いて頂いている葉書が、
小さな店構え代理として、
訪れる方たちの心に留まるといいなと思っています。
葉書を置いていただけるスペース=つまり小さな店を構えるストリート
はいつも探しています。
↓イタリアでも、いろいろ置いてみました。
ただ置いて、写真をとるだけですけれど。
本日お引越しをされるご近所の方と、
昨夜遅くに番頭も交えてワインを飲み、
あたらしいスタートをお祝いしていたのですが、
最後に「アートを購入する」という話題が出て興味深かった。
あなたの作品を、わたしは素晴らしいと思っているのだ、
という賞賛や、期待をお伝えする手段として一番現実的で強いのが、
作品を購入することではという話。
アート作品を購入して所有するということと、
食卓を予約したり、 音楽会のチケットを買ったりすることは、
形あるモノと、形のないコトの違いはあれど、
そのアートが継続していくための一番強い支援となります。
同じくコトでありアートである自然手技療法も
足を運んでいただくために尽力し、
お金をいただいて自分もそれを払っていくことがとても大事。
小さな支援を力強く回すことが、
地域で小さな商いを継続するのに大事なことなのに、
余裕を失い、忘れていたようです。
目白通りから消えていくお店。
そして昨夜の会話によって、
雑司ヶ谷の名を冠してやっていくにあたっての意思を問われたような気がしました。
*
十音は今、
西日本豪雨の被害から復興するにあたっての現場力を
援護支援するセッションをしています。
アートは、生活必需品ではないかもしれません。
破壊された生活においては、
まず安心して眠ることができ、食べて排泄ができ、
お湯を浴びられて、髪の毛を洗えて、
そのあとの、またあと、ぐらいの登場なのだと思います。
しかし、アートで元気を得たこころや身体は、
傷ついた生活をより早く立て直す手伝いをできます。
少し余裕のある地域においてアートで小さな経済を回し、
そのお金を修復に送り込むことができます。
アートは一対一でしごとをするきっかけとなるので、
時にはある個人のヒストリーを可視化するのに役立ちます。
リフレクソロジーで言えば、
足からストーリーが紡げることもあります。
一人のストーリーには膨大な情報が詰まっているので、
それを知ることは豊かな学びになります。
とにかく、今は、
小さな歯車が強く回ることがすごく大事だと考えています。
*
小さな歯車ですが、十音は今日も雑司が谷におり〼。
なるべく長く。
あり続けるのだ。
言い続けるのだ。